情報素材料理会<第119回> 

コロナ時代の意思決定



講師:中山 健夫

京都大学大学院 医学研究科
社会健康医学系専攻 健康情報学分野 教授
エビデンスベーストヘルスケア協議会 理事長

 2020年、私たちは新型コロナウイルスの感染拡大という大きな試練を経験することになりました。収束がいっこうに見えない、不確実な状況のさなかで、医療や健康について、どう考えていけばいいのか? 医師で、当協議会理事長の中山健夫が「ウィズ・コロナ」時代の意思決定について解説します。

 
 健康情報学が私の専門分野で、人間を対象とした健康や病気、医療の在り方を研究する疫学という領域でいろいろな研究をしてきました。はじめの研究は脳卒中や心臓病など生活習慣病の予防医学が中心でしたが、今は人間が生まれてから死ぬまで、一生をカバーするような形になってきています。生老病死に向き合う時に、人間を力づけられるような情報・コミュニケーションとは何かを問いたいと思っています。
 
ハンマー&ダンス
 まず、新型コロナウイルスの感染状況です。WHO(世界保健機関)のホームページによると(9月24日時点)、全世界で確定した感染者の数が約3180万人、亡くなった方が約97万人です。感染者数は今なお、1カ月で1000万人の単位で増えています。
 私自身はコロナの専門家では決してなかったのですが、いろいろな立場でコロナの時代を考える、それが当たり前になってきているわけですね。
 この図は、コロナ対策の3つのシナリオのイメージです。「ハンマー&ダンス戦略」と呼ばれ、アメリカの起業家トーマス・プエヨ氏が今春、提唱しました。
 

 
 左端下を見てください。「Today」、急速に感染者数が増えてきている段階です。左の線は「Do nothing」で、何もしないケース。増加は止まりません。2番目の「Mitigation」(緩和)は、緩やかな対策をするケース。やっぱり止められません。「緩やか」というと聞こえはいいんですが、悪く言えば中途半端な対策です。初期にガツンと感染拡大を減らさないといけない。社会の機能を止めてでも人間の距離をとるのを大事にして、止める。これがハンマー戦略です。
 ある程度拡大を抑えこんだとしても、散発的にクラスターは発生しますから、出てきた時には対応する。有効なワクチンができて、多くの人達にいきわたるまでを何とか耐え忍んでいこうという期間が「ダンス」にあたります。
 人間同士のいろいろな関係・活動をなくして感染経路を絶つと、社会に負担を強いる。だから長くはできません。3~7週間がせいぜいだと言われます。今から見てみると、4月7日に緊急事態宣言が出て、これがハンマーで、解除されるまでがちょうど7週間。ベストシナリオとしては、その後、ダンスに落ち着けば良かったのですが、残念ながら、思った以上に増えてきているのが現状だと思います。収束までにはなお時間がかかるので、アフター・コロナではなくて、ウィズ・コロナの時代に入ったわけです。

不確実な状況下で
 仮にあなたなら、コロナ対策の次の3つの案のうち、どれを選ぶでしょうか?
 
A案:何もしない 通常通り
(当面の)経済活動優先
B案:緩い対策  感染対策より
(当面の)経済活動優先
C案:厳しい対策 
(当面の)経済活動より感染対策を徹底
 
 B案には、経済・社会活動を減らさないという益があり、コロナ感染・死亡を十分減らせず、拡大のリスクを高める害が考えられます。C案には、コロナ感染・死亡を減らすという益と、経済・社会活動を低下させる害が考えられ、中・長期的な影響が大きくなりそうですよね。実際には、B案かC案になるでしょう。もとより正解がない話です。それでも、もし今日、意思決定をしなければいけないとすれば、とても難しい。どうやって意思決定をしたらいいのでしょうか。情報とどういう風につきあっていったらいいのでしょうか。
 今、我々は「不確実性」と「ジレンマ」の中でいろいろなことを悩みながら意思決定しないといけない状況です。コロナの時代、私たちには理想的な情報がありません。不確実性の高い、分からないことだらけなんですね。2月に比べれば、今はかなり分かることが多くなってきました。半年後はもっと多くなってくる。それでも、まだまだ十分には足りない。だからこそ今使える情報を適切に読み解く、という姿勢が大事になります。
 
3た論法
 
 干ばつ被害の地域で、雨乞いをすると想像してみてください。祈っても、普通、雨は降りませんよね。でも、1年も2年も、それでもダメなら10年も祈っていれば、どんなに砂漠みたいな場所でも、1回ぐらいは降るでしょう。降るまで雨乞いをしていて、降った時をもって、「ほら降った」、だから雨乞いは有効だ、と訴える。皮肉を込めて、これを「雨乞い『3た論法』」と呼びます。30年ぐらい前まで、薬の効果はこんな風に調べていました。現代から見ると適当だし、科学的ではない方法でした。
 

 
 病気になりました、薬を飲みました、良くなりました、というケースもあれば、病気になりました、段々重くなりました、薬を飲みました、亡くなりました、といったケースもあるでしょう。
 個々の出来事だけを見ても、因果関係の解釈は難しい。何とでも言えてしまうんですね。個人や個別の経験を一般論に広げてしまうのは危険です。感染初期の頃、新型インフルエンザ治療薬「アビガン」に対して、若干過剰な期待が寄せられました。何人かのコロナ感染患者さんがアビガンで回復した、それが流布されると、有効だと思ってしまう。本来なら、同じような状況の患者さんで、アビガンを飲んだ人と飲まなかった人を対象にして、その後、本当に回復したのかどうか比較をする必要が最低限あったわけです。適切に行なわれた臨床試験の結果を慎重に解釈していく必要があるわけです。
 
福沢諭吉の統計学
 ついついやってしまいがちですが、人間は、どうしても目の前で起こっていることだけで判断してしまいます。福沢諭吉が『文明論之概略』で次のように説いています(現代語訳は永野裕之氏。「ダイヤモンド・オンライン」記事より)。

 いかなることも、たった一例をもとに根拠なく決めつけることをしてはならない。
 広い視野を持って一般に起こり得ることを推定し、それと得られた一例とを比較検討することなしに物事の実情を明らかにすることはできないのだ。

 福沢諭吉は、当時、「スタチスチク」、つまり欧米で普及していた統計学に対してこうした印象を持ちました。統計学は、疫学の考え方の柱でもあるので、なじみやすいのです。
 医学情報のコミュニケーションは、不確実性、つまりリスクを扱うことが多いものです。それが複数の人間の間で起こります。人間は多様で個別性が高いので、不確実な部分を中心に、個人の解釈・期待・価値づけが生じます。で、不確実性が高い時、つまり、よく分からない時に、どうしたらいいのだろうかという問いが浮上してきます。
 
意思決定を共有する
「シェアード・ディシジョン・メイキング」という言葉があります。
 

 
 エビデンスの限界、不確実性――つまりどれくらい分かっていないのかということと、個々人の価値観の多様性の調和を目指す新たな医療コミュニケーションを指します。共有意思決定とも言われます。何を共有するかというと、情報と目標、責任の3つです。医療の現場ですと、医療者と患者さんで意思決定をする。医療者が答えを知っている時は医療者の言う通りにすれば、概ねいいのですが、医療者もよく分かっていない時には一緒に相談する、情報を持ち寄る。そして目標を徐々に共有していく。その結果として責任を共有する。
 ある有名な医学論文では、「シェアード・ディシジョン・メイキング」が「患者さん中心の医療の頂点」だとし、「どうしたら良いか分からない時は、相談して、協力して、一緒に悩んで、決めよう」と提言されています。科学的根拠は重要ですが、常に確実とは限りません。難しい時代だからこそ、いろいろな人と協力した熟慮が求められていると言えるでしょう。
2020年8月19日 ライブ配信で開催

 

編集後記にかえて
菊池夏樹
高松市菊池寛記念館名誉館長
(株)文藝春秋社友

 
1918年第一次世界大戦が始まったころだから、約100年前の話だ。私の祖父菊池寛の大正9年7月に発表した随筆に『マスク』と題する作品がある。一部を抜粋して書くと「自分は、心臓と肺とが弱い上に、去年あたりから胃腸を害していた」。この頃にスペイン風邪が流行した。「自分は感冒に対して、脅えきってしまった」「自分は、極力外出しないようにした。妻も女中も外出させなかった」「止む無く外出するときには、ガーゼを沢山詰めたマスクを掛け、帰った時に丁寧に手洗いをし、過酸化水素水でうがいをした」。現在の我々と同じである。ただ、100年前と違うのは、医療の進歩であろう! 沢山の正確な情報を迅速に、多様に得れば、病と対峙することが今は出来る。