情報素材料理会<第107回> 

行動経済学で
健康を読み解く

~AIアプリへの道しるべ



講師:西村 周三

医療経済研究機構所長
厚生労働省社会保障審議会元会長
京都大学元副学長
NPO法人エビデンスベースト
ヘルスケア協議会 特別顧問
 

私たちは今、行動経済学に基づいた問答を通じて、自分の行動を変えてゆくための健康AIとゲームアプリの開発を進めています。人生100年時代、行動経済学は健康をどのようにとらえるのか? シニアマーケティングはどう変わるのか? 元国立社会保障・人口問題研究所所長で、当協議会特別顧問の西村周三が近未来を読み解きます。

 

 ちょっとびっくりするようなデータから、お話を始めようと思います。
「あなたは健康ですか?」と訊ねられたら、どう答えますか? 選択肢は、「非常に健康だ」「健康だ」「まずまず可もなく不可もなく」「不健康だ」の四つです。日常会話なら、関西弁で「ぼちぼちですわ」と答えておけば当たり障りがないんでしょうが、「調査です。回答を」と迫られると、いくらか、かしこまることもあるでしょう。一分間、時間をとりますので、お考えください。
 経済協力開発機構(OECD)が2017年に発表した報告によると、「自分は健康だ」「非常に健康だ」と回答した成人の比率は、日本では35.4%。 OECD加盟35カ国のうちで韓国(32.5%)に次ぐ低さで、平均値の68.7%のおよそ半分にとどまっています。最も高かったのは、カナダとアメリカで88.1%、87.8%でニュージーランドが続いています。ちなみにこの数字は、若い人も、お年寄りでもほぼ同じです。
 他方、「あなたは幸せですか?」と問いかける幸福度研究が世界規模で進んでいますが、よく知られているように、日本人は余り、「幸せだ」と答えません。国連が発表する「世界幸福度報告」の2019年版ランキング(156カ国・地域が対象)によると、日本は、前年の54位から順位を下げて58位でした。主に六つの指標について、幸福度を0から10で自己評価してもらう調査です。
 先のOECDの報告では、日本の平均寿命は83.9歳で、35カ国中のトップ。健康寿命(WHO調査 2018年版)に関しても、74.8歳で、シンガポールに次いで二位です。明らかに健康なはずなのに、日本人は「健康じゃない」と言う。これいかに?
 

 理由のひとつとしては、日本人は両極端をとらず、真ん中を答えがち、と言えそうです。冒頭の質問に対しても、「まずまず」と答えた日本人は49%で、多くのOECD諸国を上回っています。もうひとつ、いろんな問題に関して、欧米諸国に比べると、日本人はネガティブ思考寄りで、ポジティブ寄りではない傾向がある、と各種の研究でわかってきています。「あなたは病気だと思いますか? 体調悪いですか?」と訊ねれば、「悪いです」と言いながら、心の底ではそんなに深刻に考えていない。こういう人の気持ちをどうやってくすぐるか? 「心理学を内包する数学」とも呼ばれる行動経済学は、単純に見える設問から得られる知見を広く集め、個々人の行動変容につなげるのがテーマなんです。
 健康について、身体(フィジカル)、精神(メンタル)、社会(ソーシャル)の三つの側面から考えてみてはどうでしょう、と私は提案しています。
 メンタルについて言えば、「変化」がひとつのキーワードです。例えば、サラリーに関して、ある程度の暮らしができているという前提で、今年の給料が去年と変わらなくても、普通は幸せなはずですが、そうはいきません。資本主義社会のせいか、サラリーが去年より増えないと、幸せを感じません。去年よりわずかでも良くなれば、幸せだと感じる、こうした変化に対する感覚についての研究が進んでいます。
 健康に関しても同じです。日本のお年寄りは特に「自分は健康じゃない」と言います。歩行速度が落ちた、目が見えづらい、あちこち痛む……去年より調子が良くない、そこを日本人は過大に評価します。欧米では、70代と80代を比べれば、80代の方が元気じゃないのは当たり前、ならば80代なりの健康をと考える。過去と比べて自分のどこが良くなったか、積極的に見つけるという考え方の方が適切だと思いませんか?

 


「タバコをやめると健康になりますよ」と医者に言われたとしましょう。欧米人は、やめる人は何も言わずにやめるし、やめない人は、「そんな簡単にやめることはできません」と抗弁するのに、日本人の多くは、「はい、わかりました、やめます」と言っておいて、実際はやめない。先程の健康に関する事例とよく似ています。
 伝統的な経済学では、目先の利益と将来の利益とを天秤にかけて、目先を優先する人はタバコをやめない、将来を考える人はやめる、という言い方をします。半分正しいけど、人間ってそんなに単純ではありませんね。人間の心理には、「やめた方がいいかな」という思いと、「いや、やっぱりやめないでおこう」という思いとが同居しているものでしょう。
 人間は非合理的で、常に理性と感情の両方のバランスをとって意思決定する。だからいずれも正しいんです。2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者のダニエル・カールマンがこうした理論の先駆者です。つまり、誰しもタバコをやめたいと思っている。でも、回答は、その時々、質問に応じて変わる。この「質問に応じて」というのが後述するマーケティングの重要なテーマです。一回限りの、一方的なアンケートでは、ほとんど人間の本性はわかりません。
 

 ある商品に関して、作り手が全く情報を提供しない時代がかつてありました。次にわかりにくい情報を提供する時代が来て、ようやくわかりやすい情報を提供する時代になりました。それでもテレビ・コマーシャルは今なお、特定の人を対象にせずに、マスに対して大量にばらまかれています。例えて言えば、投網を打つような手法ですが、以前ほど効き目がなくなってきています。情報を提供する時代の次に、情報を収集する「モニタリングの時代」が到来する、と私は予見しています。
 人それぞれに違う、同じ人でも折々に違う、時には嘘もつくという前提に立って、正確に情報を収集できれば、例えばDMにしたって、同じ文面で一万通送るのではなしに、一定の比率ごとに文面を変えて、ニーズのあるところに的確に届くようにする。情報を収集するにも、一人ずつ違う情報を流すにもコストがかかりますが、ITの進化によってコストはどんどん下がる傾向にありますね。それが追い風になると思います。
 ネット書店で本を買うと、「あなたにはこんな本がお奨めです」といって、次に買うべき本を提案してくれます。これまでの自分の購入履歴に加えて、他の利用者の購買傾向がビッグデータとして蓄積されていて、コンピューターが考える最適解を自動的に選ぶ仕組みです。今は、「ハズレ」があるかもしれませんが、今後、AIの進化によって、精度は日進月歩で上がっていくでしょう。これと同じことが健康に関してもできないでしょうか。
 

 ㈱おせっかい倶楽部では、個人の健康データを基礎に、環境データ等も加えた「健康資産ビッグデータプラットフォーム」を構築し、プラットフォームとユーザーとの接点としてゲームアプリを開発中です。ゲームのメーンキャラクター「ちひろ」は、健康AIエージェントです。自分の健康データを「ちひろ」に記録しながら、eラーニングとゲームで健康について学び、「ちひろ」を賢く育てていくと、自分に最適のレコメンドが得られるようになる―自分と「ちひろ」が互いに好影響を与えあう関係作りを目指しています。

 AIの力を借りて、フィジカルの健康を、メンタルとソーシャルの絡みで支えていくような対話をゲームの中で展開したい。そこで重要なキーワードが「傾聴」です。
 「あなた最近、お友達と話をされましたか?」といった質問を「ちひろ」がする。勿論、「どうしても他人と話をしたくない」と拒絶する人も一定の割合で存在するでしょうけど。自分の今の状態について、上手に表現できる人もいれば、そういう表現が苦手な人もいる。どんな相手に対しても、粘り強く耳を傾け、そのうえで、ある確率にしたがって、「ちひろ」が的確な反応を返す。例えば、単純に「脅迫モデル」と「激励モデル」といった類型を検討しています。楽観が過ぎるユーザーのタイプには、ハードに脅迫した方が効果的です。ソフトに応援した方が効果が上がるユーザーもいるでしょう。「頑張れ!」と背中を押すべきタイミングなのか、「頑張らんでもええやん」と慰めるべきタイミングなのか。大量のデータを収集することで、そんな微妙な違いを見極めたいと思っています。
 
 
編集後記にかえて
菊池夏樹
高松市菊池寛記念館名誉館長
(株)文藝春秋社友

 
古代中国の哲学者孔子は、人の心に「理」と「心」があると説きました。論語ですが、孔子の教えは、儒学として広くアジアに広がりました。いつの世も人間を知るためには、「理性」と「気持ち、感情」のせめぎ合いを調べる必要があるのです。医学で言えば、疫学はハードです。そして、行動経済学は、そのソフトです。人間を知るためには、多くの心理の集積が必要です。人は、嘘もつきます。嘘を見破り、本音を出させ、全ての人間に役立てる。これが、今後のAI化に不可欠でしょう!