情報素材料理会<第106回> 

ナノが拓く
ヘルスケアの未来



講師:森谷 敏夫

京都大学名誉教授
京都産業大学、中京大学客員教授
NPO法人エビデンスベーストヘルスケア
協議会 理事
株式会社おせっかい倶楽部代表取締役
 

2000年、当時のクリントン・アメリカ合衆国大統領がナノテクノロジーを国家の戦略的研究開発目標に定めて以来、20年弱が経過。実践・応用へと研究が進む中でも、とりわけ期待が高いのがヘルスケア分野です。運動生理学の専門家、当協議会理事の森谷敏夫がナノテクとヘルスケアの未来について語ります。
 


 「ナノ」とは、10億分の1を指す単位です。1㎚(ナノメートル)は、10億分の1メートル。1㎜(ミリメートル)の千分の1を1㎛(マイクロメートル)と呼びますが、そのさらに千分の1が1㎚にあたります。これだけでは実感が湧きづらいでしょう。ごく一般的な紙の厚さがおよそ0.1㎜で、100㎛です。今、この紙の厚さの千分の1にあたる100㎚の厚さの通称「ナノシート」に、私は注目しています。
 先だって、東京工業大学生命理工学院講師で、「ナノシート」を研究開発なさっている藤枝俊宣(ふじえとしのり)先生に、貴重なお話をうかがう機会がありました。
 藤枝先生の研究室では、土の中や体内に入れても自然に溶けてゆく生分解性高分子を素材にした「ナノシート」をトイレットペーパーのサイズで量産する技術が確立されました。「ナノシート」は、余りにも薄いので、「追従性」といって、皮膚に密着する度合いが高く、貼り付けても違和感がない、という特性があります。このちょっと高級な絆創膏には、電気を通す導電性を加えることができるのです。2000年に白川英樹博士が「導電性高分子の発見と発展」の功績により、ノーベル化学賞を受賞なさいましたが、藤枝先生の研究も、その延長線上にあると考えてさしつかえないでしょう。藤枝先生は、日本バイオマテリアル学会の推薦により、「プリンテッドナノ薄膜の創製と生体計測制御に関する研究」で平成30年度の科学技術分野の文部科学大臣表彰(若手科学者賞)を受賞されました。
 

 スポーツ医学を専攻し、アメリカで博士号を取得した私は、近年、高齢者や、何らかの障害によって運動がままならない方々の機能回復のために、筋肉に主眼をおいて、研究を続けてきました。その見地からして、「ナノシート」には、おおいに刺激を受けました。工学系の藤枝先生の発想が、魅力的なコラボレーションに発展する可能性を秘めていると思うのです。
 例えば来年、2020年に開催予定の東京オリンピックに向けた選手の強化を考えてみましょう。
 陸上のランニング競技で、短距離でもマラソンでもいい、トップクラスのアスリート各人は、それぞれ強い筋肉と弱い筋肉に個性があるはずです。ランナーは筋肉に疲労物質の乳酸が貯まってくると、途端にパワーが落ちる。それじゃあいけないということで、脊髄の運動神経が即座に反応して、これまで使ってこなかった筋肉や筋線維(きんせんい)を大急ぎで活性化して動員します。そういうメカニズムがごく自然に働いて、筋肉には電位の差が生じます。私がナショナルチームのコーチだったら、最も知りたいのは、ある選手が走りはじめてから、どの時点で、どの筋肉に乳酸が貯まりはじめるか、です。
 今、仮に、「ナノシート」をアスリートの脚を中心に各筋群に貼り付け、電位の変化を計測した値を飛ばしてリアルタイムで見ていけば、どうなるか? A選手はふくらはぎの筋肉が、B選手は足を持ちあげる大腿四頭筋が、C選手は三角筋がまずへばる、とわかる。弱点が可視化できるわけです。ならば、先にへばる筋肉の部位を集中して鍛えればいい。

 これまでの金属系の電極だと、埋め込むには痛みが伴うし、ちょっと激しい運動をするとズレてしまうという課題がありました。「ナノシート」が素晴らしいのは、足の裏のような微妙な部分で計測しても、ぴったりとくっついていて、インピーダンス(交流回路で電流の流れにくさを表す量)が少ないせいか、アーチファクト(計測した信号の中に混在している目的信号以外の夾雑物(きょうざつぶつ)やノイズ)が出にくいという点です。
 

 スポーツ方面に限らず、これまでうまく計測できなかった筋電位を長時間、安定して捕捉すれば、医療界にも応用はできそうです。
 例えばタイピストとか、オフィスで働く方たちの肩こりは、産業医学でも永年、課題になってきました。軽い負荷だけど、長時間続けると、腕にしびれが出て動きにくくなったり、肩関節に支障をきたしたりします。これまでも筋電図を使って診断をしてきましたが、なかなか長時間、安定してデータが採れませんでした。これを「ナノシート」に変更し、1㎝間隔で筋電位を計測すれば、どれぐらいの作業で、どこが痛むか、がわかってくるはずです。幸い、いいデータが採れれば、解析する技術はかなり上がっています。どんな運動神経がどれぐらいの頻度で活性化し、どう収縮しているかというところまでわかるのです。整形外科などでは、とても重宝するように思います。
 

 筋電位が拾えるとなると、「ナノシート」を使って電流を流すこともできるでしょう。そうすると、例えば、高齢の方が、膝が痛むとか、骨折の後だとかに、リハビリをなさる。理学療法士(PT)、作業療法士(OT)といった専門家が見守るわけですが、これまでの判断基準は、「これぐらいでいいでしょう」とか、「もうちょっと頑張りましょう」とか、あくまで感覚的な職人芸の世界ですよね。
 ここで「ナノシート」を使って、筋電図を仔細にモニターしていけば、これぐらいの負荷をかけた時に、5回目から筋肉の疲労がうかがえた、とか、より具体的にリハビリのプランが立てられる。
 京都大学では、医学部の先生方と、十字靱帯を断裂し、再建手術をした後の患者さんたちを対象に、骨格筋を電気刺激して、機能回復を早める実験を重ねてきましたが、「ナノシート」を使えば、それぞれの患者さんに最適な電気刺激の強度と時間を割り出すことだってできるように思います。およそこういうプログラムが有効だろう、ではなくて、よりオーダーメイドに近い医療が提供できる可能性があります。
 

 近未来の医療を視野に入れると、これまでは外科手術を除けば、基本的に医薬品が治療の先端を担ってきましたが、認知症をはじめ、画期的な治療薬の開発は、年々難しくなってきています。代わりに注目を集めているのが、ナノテクノロジーを含むバイオマテリアルや、バイオエレクトロニック医薬 の台頭です。
 昨年、アメリカで、交通事故等で脊髄に重度の損傷を受けた3人の男性患者が、電気刺激による治療で数年振りに歩けるようになった、という報告が「ネイチャー」に発表されました。脊髄を損傷しても、一部、神経が残っている場合、電極を埋め込んで、電気刺激を与えるという治療がはじまっています。健常者は主に神経を通して、自分の意志で筋肉を動かしますが、実は、筋肉は外部からの他動的な刺激を受けても動きます。適切なタイミングで、適度の強度で電気刺激をしてやると、筋肉が動く。その動作に慣れると、やがて筋肉から情報が脳にフィードバックされて、患者はあたかも自分の意志で筋肉を動かしているように感じられる。そのリハビリを重ねた結果、歩行能力を取り戻したわけです。
 義手や義足も技術的な発展が目覚ましくて、電気刺激と筋電図のモニタリングを組み合わせるリハビリを進めることで、機械の手や脚を、自分の脳と筋肉でコントロールできるようになるといった先進事例が報告されています。

 2002年に、アメリカの神経学者が、ラットを運動させた時に、脳で記憶を司る部位の海馬の神経細胞に特別に出てくるタンパク質を発見しました。これを、脳由来神経栄養因子 (BDNF)と言います。運動すると、BDNFが増える、増えると神経の可塑性(かそせい)が良くなる。つまり、脳の神経細胞の学習能力が高まるのです。
 最新の研究では、BDNFには神経の再生を促進する働きがあることも、明らかになってきました。
 電気刺激による運動でBDNFの産生を促し、神経を再生する。あるいは、ナノファイバーが神経にとって代わってもいい。そういう時代が近づいているのです。
 
 
編集後記にかえて
菊池夏樹
高松市菊池寛記念館名誉館長
(株)文藝春秋社友

 
 科学の進化、特に医療関係に関する進歩は凄い! 皮膚のように柔らかく、しなやかなフィルムシートが出来たんですね。そのシートに電極を取り込めば、弱った筋力を補完してくれる時代がすぐそこまで来ているようです。動かなくなった手足が動くようになるかも知れません。失禁も筋力の弱まり、シートの効用で、家族に隠れて、そっと濡れた下着を洗濯機に放り込まなくても済むようになるでしょうね。いやいや私の話ではありません! 私と同い年の友人の話!